日本には季節の変わり目を知る暦として中国から伝わった二十四節気や五節句のほかに、日本の生活文化から生まれた9つの雑節という暦日(れきじつ)があります。
暑かった夏がやっと過ぎ、秋の気配が感じられはじめる頃に訪れるのが二百十日という雑節です。
2018年の二百十日はいつなんでしょう? そして、二百十日にはどんな意味があるんでしょうか。
また、二百十日というキーワードで検索すると、夏目漱石の小説がヒットしますが、どんな小説なのでしょうか。
2018年の二百十日はいつ?
二百十日は立春から数えて(立春の日も含む)二百十日目の日に当たります。
2018年の立春は2月4日でしたので、2月4日も含めて二百十日後の9月1日が2018年の二百十日になります。
二百十日は、春分の日から30週間後の次の日というふうに覚えておくと覚えやすいですよ。
二百十日の意味は
雑節
二十四節気は季節を表す暦日なんですけど、中国から伝わったもので日本の気候風土とは少しズレたところもあります。
そこで、日本独自の暦日として考え出されたのが雑節で、次の9つのものがあります。
- 節分
- 彼岸
- 社日(しゃにち)
- 八十八夜
- 入梅
- 半夏生(はんげしょう)
- 土用
- 二百十日
- 二百二十日
日本人は農耕民族であったため、雑節も農作物に関するものが多くなっています。
二百十日もそのうちの一つで、ちょうどこの頃は稲が開花・受粉する時期で、農家にとって大切な時期になります。
しかし、台風が日本付近にやって来はじめる時期とも重なるため、この日を厄日として戒めるようになったというわけです。
台風がやってくるということは農家の人たちだけでなく、漁師さんにとっても生死に関わる重大な問題だったんです。
9月は台風シーズン
気象の側面から言うと、7月と8月は強い勢力の太平洋高気圧が日本列島を覆い、台風の多くは太平洋高気圧を避けるように日本列島の西側を通って北上します。
ところが9月になると太平洋高気圧の勢力が弱まるため、日本に接近したり上陸することが多くなります。
このため、9月の初めころは強風が吹くことが多く、そのことに対する注意喚起を促すために定められたのが二百十日なのだと考えられています。
防災の日も9月1日
毎年9月1日は防災の日と定められています。
この日付は関東大震災が起きた日付にちなんで決められましたが、この日がちょうど二百十日と同じ日(年によって違うこともある)というのも、自然の脅威について考えを巡らすという意味ではちょうどいいのかもしれませんね。
日本各地には風を鎮めるために催行されるお祭りがたくさんあり、9月1日から3日にかけて富山県八尾町で行われるおわら風の盆は有名ですね。
私が住んでいる町内でも風神様のお祀りといって、風の神様にお供え物をして風害が起こらないようにと祈る神事があります。
行うのは1月の終わりという1年で一番寒い時期なんですけど、こちらは風害ではなく冷害が起きないようにという願いが込められているんでしょう。
夏目漱石の小説・二百十日
「二百十日」は1906年に発表された30分もあれば読めてしまう短編小説です。
二人の主人公、豆腐屋の息子で屈強な圭さんと、裕福な身分の碌(ろく)さんの二人が阿蘇山に登った顛末を書いたもので、文章のほとんどが二人の会話で構成されるというちょっと変わった小説です。
二百十日の大まかなあらすじ
圭さんと碌さんがどこでどう知り合ったのかは書かれてなくて、圭さんが宿に帰ってきたところからいきなり話は始まります。
圭さんが町で見てきた馬の蹄(ひずめ)をカンカンと打つ音で、住んでいた町の豆腐屋の近くのお寺の鐘の音を思い出します。
その豆腐屋はその鐘の音を合図に商売を支度を始めると話します。
そして、自分は豆腐屋の息子だと明かします。
圭さんは華族や金持ちに不満を持っているようです。
二人は温泉に入っていろんな話をします。
そこで碌さんは圭さんがいい体格をしていると言うと、圭さんは「豆腐屋出身だからなあ。体格が悪いと華族や金持ちと喧嘩できない。」だと言う。
ここでも圭さんは華族や金持ちに怒っています。
そして、明日の昼はうどんにしようかと提案します。
二人は翌日の朝六時に起きて八時に飯を食べ、十一時に阿蘇神社に参詣して十二時から阿蘇山に登ることを決めます。
夜、宿での夕食。
女中に半熟卵が欲しいと言うと、女中は半熟卵を知らないと言うので「卵を半分煮て持ってくるように」と言います。
ビールが欲しいと言うと、「ビールはござりませんばってん、恵比寿(エビス)ならござります」と言う。
「玉子と恵比寿を持ってきてくれ」と頼むと、女中が持ってきたのは完熟のゆで卵二つと生卵二つ、それにエビスビールでした。
話が阿蘇山登山のことになると、女中は阿蘇山は荒れていて(噴火していて)よな(火山灰)がたくさん降っていると言う。
碌さんはそんなときに登りたくないと言いますが、圭さんに強引に押し切られて登ることになります。
いよいよ二人は阿蘇山に登ります。
足の早い圭さんはどんどん先に進み、碌さんはだんだんと遅れ、心細い気持ちになります。
途中で雨が降り始め、雨に火山灰が混じっているので二人とも顔も着ているものも真っ黒です。
碌さんは足全体にまめができて歩くのが辛くなっています。
二人は道に迷い、圭さんは少し高いところに行って道を探すことに。
少しすると、高いところではなく下の方から圭さんの「おいおい」という声が聞こえます。
圭さんは溶岩が流れたあとの窪地に落ちたようです。
圭さんは、この雨と風は二百十日のせいかもしれないと言います。
碌さんは圭さんをその窪地から引き上げるために、腹ばいになって持っていたこうもり傘を圭さんに差し出し、やっとの思いで圭さんを引っ張り上げます。
次の朝、宿に戻った圭さんと碌さんはまた話し始めます。
圭さんは前日失敗した阿蘇山登山にまた挑戦しようと言います。
碌さんは一旦熊本に帰ってまた出直そうと言います。
圭さんは華族や金持ちが許せない、我々が世の中に生活しているのは、こういう文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない平民に安慰を与えるところにあるんではないかと言う。
碌さんは「うん、ある」と言う。
圭さんは「あると思うなら俺と一緒にやれ。ともかくも阿蘇に登ろう」と言う。
碌さんは「うん、ともかくも阿蘇に登ろう」と応える。 終わり。
最後は碌さんが圭さんにうまく丸め込まれてしまったようになってしまいましたが、二人の関係がよく分かるところではないんでしょうか。
この小説は夏目漱石の実体験が元となっていると言われていて、圭さんは夏目漱石自身がモデルであるとされています。
終わりに
最近は田植えの時期が昔と比べてずいぶん早くなり、稲の開花も8月半ばころ品種のものが多くなっています。
これも二百十日の風害を避けるためなんでしょうか。
でも二百十日のころは稲刈りの直前で、強い風が吹くと稲が倒れてしまいます。
広い田んぼにフェンスを立てるわけにはいかず、これだけはどうしようもありませんね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。