ホテルのベッドサイドテーブルに旧約聖書と新約聖書が置かれていたりします。
暇なときにはパラパラとページをめくることもあるんですけど、キリスト教徒でもユダヤ教徒でもない私は「なぜこんな本が置いてあるんだろう?」と不思議に思います。
そして、旧約聖書と新約聖書って何が違うんだろうとも思ってました。
今回、旧約聖書と新約聖書の違いについて調べてみましたので、聖書になじみの薄い人にもわかりやすいようにご紹介します。
旧約聖書と新約聖書の違い
まず、旧約聖書と新約聖書は古い聖書、新しい聖書という意味ではありません。
書かれた年代からすればその通りなんですが、旧約と新約の「約」とは「約束(=契約)」のことを指しているわけです。
つまり、古い契約と新しい契約ということです。
旧約聖書とは?
旧約聖書はユダヤ教、キリスト教の聖典ですが、キリスト教では新約聖書のほうがその比重は大きいものになっています。
作られ始めたのは大変に古く、紀元前1000年ほどからとも伝えられていて、よく知られている「アダムとイブ」「ノアの箱舟」の話もこの旧約聖書に出てきます。
そこに書かれている契約は、イスラエル人のダビデの家系から救世主(メシア)が現れ、世界を救うというものです。
今から4000年ほど前、神の啓示によりカナン(今のイスラエル)に移住したのがアブラハムで、アブラハムにイサクという子供が生まれ、イサクにエサウとヤコブという双子の子供が生まれました。
(そのヤコブにイスラエルという名前が与えられることになったため、イスラエル人の始まりはヤコブということになります。)
ヤコブに12人の子供が生まれ、その12人がそれぞれ部族の長となり、イスラム教部族となるわけですが、ダビデはその12部族のなかのユダ族の出身です。
ユダヤ教では未だに救世主は現れてはなく、今でも救世主の出現を待ち望んでいるというスタンスに立っています。
従って、ユダヤ教徒にとって旧約はまだ成就していないことから、「旧約聖書」という呼び方はしていません。
契約というからには当事者が二人いるわけで、それは神とイスラエルの民です。
神はイスラエルの民がエジプトで奴隷とされていたのを救い、そのときにイスラエルと結んだ契約が旧い契約で、イスラエルの民は神と向き合って生きることを契約したわけです。
新約聖書とは?
新約聖書はキリスト教の聖典です。
旧約聖書が神が救世主が現れて世界を救うという契約だったのに対し、新約聖書ではイエス・キリストという救世主が現れたと書かれています。
そして新約聖書には、イエスの生涯や教えなどがキリスト教徒たちによって書かれています。
新約聖書が書かれたのは旧約聖書よりも400年ほどあとで、2世紀の初めころだと言われています。
旧約聖書がイスラエルのダビデの家系から救世主が現れるという契約でしたが、新約聖書ではどのような契約がなされたのでしょうか。
面白いことに、広辞苑で「契約」を調べてみると、その項目のひとつに次のようにあります。
[宗]キリスト教で、神が救いの業をなしとげるために、人間と結ぶ恵の関係。イスラエル民族に対してモーゼを通じて結ばれた関係を旧約(旧い契約)、後にイエス・キリストによって結ばれた関係を新約(新しい契約)とする。
旧約(旧い契約)は神とイスラエルの間で交わされたものでしたが、イスラエルの民はその契約を破り、悪行を重ね、他の神々のもとへ行ってしまいました。
しかし、神はイスラエルの民を赦し、もう一度イスラエルの民のための神となることとしました。
これが新約聖書に書かれている新しい契約です。
そしてこの新しい契約は、イエス・キリストが人々の罪を背負って十字架にかかって死に、救世主として再びよみがえったことで成就するわけです。
このように、旧約聖書と新約聖書の一番の違いは、救世主は誰かということになると思われます。
旧約聖書では救世主はイスラエル人のダビデの家系から現れるとし、その出現を待ち続けており、新約聖書ではイエス・キリストが救世主だとしています。
まとめ
旧約聖書と新約聖書の違い
- 旧約聖書は旧い契約
- 新約聖書は新しい契約
- 旧い契約とはイスラエル人のダビデの家系から救世主が現れるということ
- 旧い契約をイスラエルの民が破ったにもかかわらず、神はもう一度イスラエルの民の神になるとしたのが新しい契約
- 新しい契約とはイエス・キリストが救世主となるということ
日本には「八百万(やおよろず)の神」という考え方があり、すべてのものに神が宿るとされていますね。
だから、すべてのものを敬い、感謝することが大切なんだと理解しています。
これに対して、旧約聖書でも新約聖書でも神は唯一無二のものだとされています。
どちらがいいかは別にして、このことが日本人気質の礎になっているような気がします。
本当に神がいるかいないかは分かりませんが、神はいると信じてすべてを神に委ねたほうが楽に生きられるような気がしますね。
私は宗教学者でもキリスト教徒でもありません。
ここに書いたことに間違いがありましたら、ご連絡いただければ幸いです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。