深沢峡の「いさまつ」と「五月橋」に行ってきました。驚きの遭遇も!

神社や仏閣など古いものが好きな私にとって、廃墟巡りも観光の範疇に入ります。

かなり厳しい場所に建っているとのことなので一人で行くのはちょっと心配でしたが、岐阜県の廃墟としてはけっこう有名な廃茶屋の「いさまつ」と木曽川に架かる「五月橋」に行ってきました。

瑞浪市の県道352号線をひたすら北に向かって進むと、瑞浪市衛生センターのあるところで道路は通行止めになっていました。

 

 

右側の樹木の後ろの白い建物が瑞浪市衛生センターで、左手にある看板には「八百津方面 車両通行不能」とあり、その横の縦の看板には「車両等は通行できません」とあります。

「車両通行禁止なら歩いていくのは大丈夫だな」と解釈して、ここで乗ってきたオフロードバイクを下りて徒歩で向かうことにしました。

しかし向かう場所は山の中で野犬がいたという書き込みもあり、熊が出るかもという心配もあったので、ヘルメットはそのままかぶってナタを腰からぶら下げ、熊よけの鈴も身につけるという重装備で歩き始めました。

 

 

 

いさまつまでの道

 

道の両側から樹木が張り出し「これが管理された県道か?」と思わせる荒れた道を歩き始めて少し経つと、道路を塞ぐようにコンクリートブロックでしっかりと固定されたガードレールが行く手を阻んでいました。

よく見ると、左側に50センチほどの余裕があります。

オフロードバイクなら通れそうな気もしますが、アスファルトと地面との段差が10センチほどあり帰りには難儀をしそうなところです。

そのさらに左側は木曽川の支流の崖で、落ちても木に引っかかるとは思いますが引き上げるのが大変ですので、バイクで来られるのはここまででしょう。

 

 

ガードレールのところから少し歩くと、深沢峡記念碑という石碑が建っていました。

建立された日付も彫ってありましたが記憶がありません。

確か昭和30年だったような気が・・・・。

 

 

ただこの石碑、ちょっと立ち方が変なんです。

前方に傾いて立っていて、下の部分にコンクリートで補修した跡があったので、一度崩れたのを補修して立て直したのかもしれません。

そして、この石碑のある場所から下の川を覗いてみたら、何と対岸の川岸にアルミ製のハシゴがかかっていました。

写真で見ると近そうに見えますが、30メートルくらいは下の位置にあります。

誰が何の目的でハシゴをかけたんでしょう?地籍調査でもしているところなんでしょうか?

 

 

さらに進むと崖が崩落しているところが2箇所ありました。

これではとても怖くてバイクでは来られませんね。

 

 

2箇所目には何とスクーターが放置してありました。

 

 

写真を撮影しているところからは7メートルくらい下にあります。

↓ 下に降りて撮ったスクーターのアップがコレ。

 

 

ナンバープレートは上が少し残っているだけで下は折れてなくなっています。

多治見市の文字が確認できますが、こんなところにスクーターを廃棄しに来たんでしょうか?

それとも転落したんでしょうか?

近くにはスクーターの破片も散らばっていました。

 

スクーターがあったところから少し行くと、ブロック塀のトイレが建っていました。

相当な年月が経っているために中は悲惨な状況でしたが、ブロックはまだ綺麗なままでした。

 

 

トイレを過ぎて左に曲がるとまたもや石碑が建っています。

風化してほとんど文字が判別できませんが、かろうじて「深澤峡」という古い文字が右から横書きで彫ってあるのが分かりました。

 

 

二つも石碑があるところを見ると、深沢峡というところは昔はけっこうな観光地だったようですね。

 

いさまつの風景

石碑から目を離して頭を左に向けるとありましたよ、いさまつが。

 

 

 

5,6年前にネットにアップされた写真に比べると、だいぶ崩壊が進んでいるようです。

玉◯医院の看板もありません。

崖に建っているため、今見えている部分は三階なんですね。

さっそく中に入ろうとしたら、軒下の茶碗の入ったダンボールの上に雑誌のようなものが・・・。

なんだろうと思って見てみると、それはペン習字の教則本でした。

往復はがきの書き方の見本文が載っていたのですが、驚いたのははがきの文末に書いてある日付が1950年だったことです。

あまりに古い日付のものを見本として載せるわけありませんし、いさまつはそんなに昔にここで営業してたのかとびっくりしました。

 

 

ほかにビューティフルカンパニーという雑誌もありました。

「週刊朝日発行70周年」とありますが、週刊朝日が発刊されたのが1922年なのでこの雑誌は1992年に発行されたものですね。

いさまつが営業していた時期は後に記述しますが、この雑誌はいさまつが営業しなくなってから持ち込まれたもののようです。

 

 

↓入ってすぐの内部はこんなふう。(室内の画像は暗かったため明るく加工してあります。)

 

 

「巨人の星」世代の人間にとっては懐かしいちゃぶ台があり(円形ではありませんが。)、ちゃぶ台のこちらにあるオレンジ色のものは豆炭を入れて使うあんかですね。

奥に進むと階段があり、まだしっかりしていたので下に降りてみるとそこはかなりの乱雑ぶりでした。

 

 

暗くて見づらいかもしれませんが、丸い窓に施された意匠は古き良き時代の粋を感じさせます。

 

 

 

さらに下に向かう階段がありましたが、こちらは崩壊がひどく鉄製の脚立が伸ばして置いてあったものの、危なそうだったので家の外に付けてあった細い道を伝って下に降りました。

 

 

下に降りて外から建物を見上げてみると、下の部分は柱を除いてほとんど崩壊していました。

 

 

ここを紹介したほかのブログで紹介されていた、室内にあった氷を入れて使う保冷庫も屋外に放り出されていました。

 

 

経年放置による崩壊ならこれほどの壊滅状態にはなっていないと思います。

多分DQNたちが破壊していったのでしょう。

あまりに酷い状態だったので少し悲しい気分になり、上の階に行って景色を楽しむことにしました。

 

 

ゆったりと流れる木曽川の景色には多くの人たちが心癒やされたことでしょう。

 

 

木曽川の上流に目をやると赤い五月橋が抜群の存在感を誇っていて、誘われるように私はいさまつを後にして五月橋に向かいました。

 

五月橋への道でのゆる~い遭遇

いさまつから五月橋へはだいたい500メートルといったところでしょうか。

ずっと下り坂なので楽チンです。

途中に何箇所か石垣が崩れているところがあります。

 

 

この山に付けられた道は一本だけではなく、ほかにも道が確認できました。

どの道も石垣を組んで取り付けられていましたが、それにしても車も通れないこんな道によくこれだけの石を運んだものですね。

 

もうすぐ五月橋というところで下の方から誰かの話し声が聞こえてきました。

最初は「えっ、空耳?」と思ったのですが、最後の坂を下りると橋のたもとで80歳くらいのお年寄りが二人で座って話をしてみえました。

こんなところに来るのはDQNか廃墟マニアくらいだと思っていた私は驚きましたが、先方も驚いたようでキョトンとしてみえました。

「こんにちは、どちらからみえたんですか?」と声をかけると、「俺たちゃ地元の同級生で遠足に来た」とおちゃめな答え。

地元の方ならいろいろ知ってるだろうと少しの間いさまつの話を伺いました。

そのお年寄りの話によると、いさまつは40年くらい前までは営業していたそうで、当時は下流の八百津町(ここも八百津町ですが)から遊覧船に乗ってたくさんの人がやって来ていさまつで飲食を楽しんでいたそうです。

きれいな女将さんもいたそうですよ。

いさまつで使う食材も遊覧船で運んでいたようで、こうしたことを考えると、遊覧船の運行が廃止になったためにいさまつも営業を終了したのではないかと想像されます。

 

 

前置きが長くなりましたが、いよいよ五月橋です。

どうでもいいことなんですけど、私の義母の名前も「五月」なんでちょっと気になるんですね。

 

 

橋の両側は木や草が生い茂っていますが、まだ十分に使える鉄橋です。

でも、さきほどのお年寄りの話によると、下流にある丸山ダムが嵩上げされて新丸山ダムができると、木曽川の水位が7メートルくらい上昇して五月橋は水没してしまうとのことです。

新丸山ダムの完成はまだだいぶ先のようですが、この橋を見られなくなってしまうのは残念です。

見えなくなってしまう前に来られて良かった~♪。

 

橋の対岸側にはこの橋が設置された年が示された銘板が設置してありました。

 

 

昭和29年って太平洋戦争が終わってから10年も経っていないときですよ。

そんなときにこれだけのものを作ってしまうなんて、日本の戦後復興はすごかったんですね。

 

下の写真は橋を渡って反対側の道から撮影したものです。

この橋が使われていない橋なんて信じられないほど綺麗です。

 

 

そして下は五月橋から撮ったいさまつです。

 

 

うっそうとした樹木の中に建ついさまつ。いい雰囲気です。

↓ アップにするとこんなふう。

 

 

梁(はり)も歪んでしまっていて、全崩壊は時間の問題ってところでしょうか。

 

しばらく五月橋でのんびりしたあと、帰りの途につきました。

来るときはすべて下り坂で楽だったんですけど、帰りは逆に上り坂、天気が良かったのとパット入りのツーリングウェアを着ていたので汗がどっと吹き出し、しっかり有酸素運動をさせてもらいました。

途中でさきほどのお年寄りが何かを採取しているのに出会い、「何を採ってるんですか?」と聞くと、「植木鉢に敷く苔。買うと高いよ」と自生している苔をたくさん採ってみえました。

右手に持ってみえるバッグの中に苔がいっぱい入ってます。

 

 

お年寄りを追い越していさまつを下からもう一枚。

柱が頼りなさげで今にもバキッといきそうです。

 

 

もう来ることはないかもしれませんが、「長く持ちこたえてくれ」と祈りつついさまつを後にしました。

 

最後に

いさまつは数年前から気になっていた廃墟で、廃墟だからそのうち無くなってしまうのでは?と急いで訪れました。

行きはよいよい帰りはツラいで、梅雨入りもしていないのに真夏のような暑さで、帰りは汗だくになった廃墟探訪でした。

いさまつは完全崩壊、五月橋は水没と、どちらもあと数年の賞味期限と思われ、早く来て良かったと思える素敵な物件でした。

(※この記事は廃墟探索を推奨するものではありません。廃墟は管理されていない物件も多く、またそこに至る道にも危険が潜んでいます。廃墟に行かれるときには十分な装備で細心の注意を払い、自己責任でお願いします。)

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。