私が住んでいる街は人口5万ほどの小さな街なんですが、そんな小さなところでも城跡が3つもあります。
となりの街にも3つあります。
でもすべては城跡であり、天守、いわゆるお城はひとつもありません。
建てられた天守の数は3,000とも言われていますが、建設当初から現存している天守は12しかありません。
なぜこんなにも少なくなってしまったのでしょうか。
日本にお城が少ない理由
落城
戦国時代に多く建てられたお城は食料や武器の備蓄場所であり、戦闘拠点でもありました。
いわば、中央司令室と保管庫が一緒になったようなものです。
そして敵に攻め込まれたときには城に立てこもって抗戦するという、最後の砦ともなったわけです。
徹底抗戦も及ばず敵に攻め落とされたお城のなかには、破壊されたり火を放たれたりして消失してしまったものもありました。
滋賀県の小谷城や佐和山城などがそうです。
お城が戦闘の拠点である以上は、落城による消失はある程度しょうがないことですね。
廃城
戦国時代の勢力図はたびたび塗り替えられました。
そのために場所的にお城が戦略上の意味を持たなくなったり、近くに新しいお城を造ったためにそれまでのお城を使わなくなったりして廃城となったお城もたくさんあります。
人がいなくなった木造建築のお城は荒廃が進み、廃墟となってやがて土にかえります。
岐阜県の高山城や福岡県の門司城などがそうです。
一国一城令
江戸幕府の第二代征夷大将軍・徳川秀忠は諸大名に対し、「居城以外のお城はすべて破却(壊すこと)せよ」との一国一城令を発令します。
この一国一城令は諸大名の軍事力をそぐことを目的とした法令であり、この法令によってそれまで3,000はあったと言われていたお城が一気に170ほどにまで減ってしまいました。
富山県の高岡城、山口県の岩国城など多くのお城が破却されました。
江戸幕府初代将軍の徳川家康は江戸城と伏見城を行ったり来たりしていましたが、伏見城も1615年に廃城が決定されて解体され、建造物の多くは二条城などに移築されました。
現在伏見城跡付近に建てられている伏見城は、模擬天守です。
日本にお城が少ないのは、この一国一城令によるところが一番大きいのです。
今から考えるともったいないことをしたなぁとも思いますが、今の日本があるのは徳川幕府があったからとも言えるので、しょうがないのかもしれませんね。
廃城令
徳川慶喜が大政奉還をして明治の時代になると、明治政府は「廃城令(正式には全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方・ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせんていかた)」を発令してすべてのお城を陸軍省の管理財産にします。
お城を維持するには莫大なお金がかかるため、陸軍省はお城を必要なお城「存城」と不要なお城「廃城」に分けました。
存城となったお城のなかにも軍用地確保のために取り壊されたものもあり、廃城となったお城は大蔵省(現在の財務省および金融庁)の管轄となり、取り壊されたり学校など多様な用途に転用されたり、売却されたりしました。
徳川家康が晩年に住んだとされる駿府城、日本のお城ベストテンのナンバーワンに輝く世界遺産の国宝姫路城、同じく国宝の彦根城や松本城なども廃城とされたお城です。
姫路城は競売にかけられ、金物商であった神戸清次郎がわずか23円50銭という安値(現在の価格で15万円余り)で落札しました。
その後明治の大修理が行われたものの、以降の姫路城は荒れる一方で、そんな惨状を見かねた市民の間で保存運動の機運が高まって国宝に指定され、昭和と平成の大修理を経て現在の姿となっています。
(↓国宝・姫路城)
ひこにゃんで知られている彦根城はいったんは廃城とされたものの、明治天皇の意向により取り壊しをまぬがれています。
(↓国宝・彦根城)
真っ白い姫路城と対比され、黒い外観が特徴の松本城も競売にかけられ落札されましたが、地元の有力者たちの尽力によって買い戻され、明治と昭和の大修理を経て現在に至っています。
(↓国宝・松本城)
愛知県犬山市にある犬山城も廃城となり、一部の建築物は近くのお寺に移築されましたが、天守は住民の働きかけによって残り、愛知県の所有になります。
その後に起きた濃尾地震で天守は大きな損傷を受けますが、愛知県はその修復費用を賄えないため、お城の復旧を条件に旧城主であった成瀬正肥(なるせまさみつ)に無償譲渡します(1895年)。
成瀬正肥は義援金を募って見事に犬山城を修復し、それ以降2004年に公益財団法人犬山城白帝文庫の所有となるまで、犬山城は日本でただひとつの個人所有のお城だったんです。
(↓国宝・犬山城)
島根県の松江城も廃城になって売却が決定していましたが、天守は豪商や元藩士らによって買い戻され、数度の改修や修理、復元を経て2015年に国宝に指定されました。
(↓国宝・松江城)
こうしてみてくると国宝となっているお城はすべて一旦は廃城となったものの、いろんな理由で守られてきたのだということが分かりますね。
太平洋戦争
第二次世界大戦のさなか、1941年に日本が英米に宣戦布告して始まったのが太平洋戦争です。
当初は優勢だった日本軍も、圧倒的な資源を持つアメリカ、ソ連、中国など連合国の前に次第に劣勢に立たされるようになり、1945年にはアメリカ軍によって日本の多くの都市が空襲を受けるようになります。
京都は歴史的に価値のある文化施設が多くあることから爆撃対象から外されましたが、その他の都市には焼夷弾が雨のように降り注ぎ、多くの家屋が消失しました。
名古屋城や和歌山城、岡山城、明治の廃城令によって廃城とされながらも破却を免れた大垣城など8つのお城がこの空襲によって焼失しました。
広島城は原爆投下による爆風で倒壊しました。
名古屋城や和歌山城は現在も建っていますが、建設当初のものではなく、焼失や倒壊したあとに復元された、いわばレプリカです。
(↓ 和歌山城)
現存する天守を持つ12のお城
建てられた当時の天守を今でも持つお城は次の12城です(北にあるものから順に)。
- 弘前城(青森県弘前市)
- 松本城(長野県松本市)
- 丸岡城(福井県坂井市)
- 犬山城(愛知県犬山市)
- 松江城(島根県松江市)
- 彦根城(滋賀県彦根市)
- 姫路城(兵庫県姫路市)
- 備中松山城(岡山県高梁市)
- 丸亀城(香川県丸亀市)
- 松山城(愛媛県松山市)
- 高知城(高知県高知市)
- 宇和島城(愛媛県宇和島市)
(太字のものは国宝で、他のお城のうち丸亀城以外は国の重要文化財に指定されています。)
まとめ
日本にお城が少ない理由
- 落城
- 廃城
- 一国一城令
- 廃城令
- 太平洋戦争
こうして見てくると、お城は随分と過酷な運命をたどってきたことが分かります。
もしも廃城令や太平洋戦争がなかったら、もっとたくさんのお城が残り、すごい観光資源になっていたんだろうなと思うと惜しまれます。
そんななか、廃城になりながらもお城を守ろうとした人たちの心意気には頭が下がります。
感謝、感謝です。
今度お城を見に行ったら、お城が存続できた理由について思いを馳せるのもいいかもしれませんね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。